昭和56年10月24日 朝の御理解

77節
「人の悪いことをよう言うものがある。そこにもしおったらなるたけ逃げよ。影で人を助けよ。」



不平不足のない信心生活を目指してと、先だってから、えー、婦人大会のテーマでしたが、もう確かに信心とはもうそれを目当てに、言うてはならんじゃなくて、言わんですむおかげをいただくことですね。助かるということはね、例えば今日のご理解で言うと、人の悪口とか、人の悪口をいう時は私自身が助かってない時だと思わにゃいかんですね。批判したり、避難したり、ですから人の不平不足を言わん、思わんですむような、あー、おかげをいただくということ。えー、それだけ出なく陰で人を助けよとおっしゃいます。だからそういう自分に不平不足のないいうならば生活、心の状態、人の悪口を言わんですむ心の状態。そういう心の状態で人の助かることのための信心修行がでけたら、本当に人が助かるだろうと思うですね。ただ自分だけが助かっておりゃいいというのではない。ね。そこにはいうなら不平不足を言わんですむ、まーそれには不平不足を言わんですむ修行、人の悪口を言わんですむ修行もまたいりましょうけれども、もうほんとに目指すところをそういうところに置いて、まー自らが助かって、そしてそういう心で、まー陰で人を助けよと、人を祈ってやれ流ような心の状態、いよいよ心が豊かになるということはそういうことじゃないだろうかとこう思う。そこには勿論、なら豊かな物にも金にも、おー、恵まれる。いわば受けものがでけて言っておるのですから。まずは自分が助からなければならない。ね。それにはまず、自分自身が人の悪口など、言わんですむ、非難をせんですむ、こりゃ確かにそうですねー。自分の周囲にひなんしたい、批判したり、悪口を言わねばならん人が周囲におるということはね、やっぱり助かっ、助かっとるようであっても助かっとらんです。「はーもうあんやつばかりはほんなこてあんやつは、はーもうろくなやつじゃねー」ちいうとが自分の周囲におってんなさい。そのろくなやつじゃないおんのごたるとが周囲におるときは地獄とおなしこっちゃ。ね。けど自分自身が助かってですね、いならばほんとにあの人は仏様のごたる人じゃと、ほんとあの人は神様のような人じゃと、周囲が見えてくるようになったら、神様やら仏様の中にある自分ですから、もうこりゃ極楽間違いないですね。ね。自分の信心はは、自分が清まって、自分の周辺を清めていくことだと言われております。いうなら和賀心時代をいよいよ広めていこうという、こりゃ合楽のまー信心目標なんですよね。ね。その心を世界万国津々浦にも広げていこうというような大きな願いを持っておっても、私自身の心の中に平和がなし、私自身の心の中に喜びがなし、私の心の中に、ね、不平があり、不足があり、不満があっては、それはただお題目にすぎないことになりますから、そういう神様の願いである、大きな、願いを感じさせていただく、ほんとに信心、信心の世界、信心なければ世界は闇と言われる、ね、ためには信心とは自分の心に光をいただくことだと。だから信心いただいとっても自分の心に光がなかったら、もうそれは信心じゃないと言うてさえもいい。ご利益がありがたいというだけのことでは、だから信心じゃない。和賀心の光が、しかもそれがだんだん大きく豊かに育っていくということなんです。ね、そこにいわば見るもの聞くものがありがたいもの。でなかったら影で人を助けて、助けずにはおれない、いうならば心の状態。
すー、これは不思議ですよね。これはテレビやラジオを聞いておって、まーいうなら惨事が起こったりするのをニュースで聞きますとね、もうほんとにまー心が寒くなるような思いですけれども、だけではいけない。そこにやはりこうそれを本気で祈れれるということなんですよね。その祈れれるその心がね、えーあたくしはありがたいと思います。もう以前でしたけれども、テレビを見せていただいとりましたら、豪州ですね。オースとラリアの方の砂漠地帯に住んでおる、まー、人たちが、んー一、家で転々として、ただ食べ物だけをあさってこう生活しておるというような人達のテレビが出てました。何が常食かというとトカゲなんです。もうそのトカゲだけが主食なんです。ですからまーお父さんと小さい子のこのくらいの子供と二人でトカゲを獲りにこう回っておるところをね、ところがその日はなかなかトカゲがおらなくてね、えー困っておるところへちょうど1匹のトカゲが出てきたんです。それを一生懸命親子で追うて行きよんです。ところがその穴の中に入って、小さい子供が尻っぽば引っ張ってから、こう引き出しよっとこじゃん、もうそれを見よったらね、もう金光様金光様と私、自分で言いよることに気がついてね。そのトカゲがなかったら、その日一日食べ(?)。砂を布団にこう砂を着て寝るです。そういう人たちがあるんですよね。世界には。うん。そん時その、こう祈ってあげれるというその心自体が、自分がありがたいのですよ。やっぱ。ね。テレビを見ながらでも祈っておる、その自分自身がありがたい。我とわが心を拝むといったようなことはそういうことじゃなかろうか。そういうわが心が我ながら拝める心とは、とても悪口どん言えれる、いう心ではない。不平不足どん言うたり思うたりすることではない。そういう心を目指してお互い信心修行をさせていただきたいと思うですね。どうぞ。
今日からあたくしもうすぐあの東京に立ちますので、今日はお届け、総代さんたちも(?)お礼もうしてください。どうぞよろしくお願いします。光昭と幹三郎が残りますから。